2013/11/30

『ママのリスト  私が死んだら、息子たちに2回ずつキスをしてね』

「大切な人たちを今日、しっかりと抱きしめたくなる命の記録。」

この見出しに引き込まれて衝動買いし、
子供が昼寝している間に読み終えた。
読んでいる最中、何度も我が子の寝顔を見て、
ふわふわと柔らかな髪を撫でながら、
色々な思いが心の中を駆け巡った。

余命数日と宣告された我が子のガンを奇跡的に乗り越えた先に見つかった、妻の乳がん。
もっともっと子供達を抱き締めて、
一緒に色んなお祝いをして、
森の中を虫を探して歩いて、
紅海をシュノーゲリングして、
たくさんの幸福を家族と分かち合いたかったのに、
38歳の若さでこの世を去ったケイト。

最愛の妻に夫がかけた「君に去られたら僕はどうなる?」という問いに応えて、
病床の中で書いた「ママのリスト」は、
妻•母亡き後の家族の再生の礎となった。

ケイトがふりまいたたくさんのハートのかけらに助けられ、
勇気づけられながら、
子供達に親としてできる最高のことをしてあげようと努力し続ける(しかも楽しみながら!)作者の姿には、
身の引き締まる思いがした。
本の最後には、この作者が書いたパパのリストも載っている。
私も、自分のリストを作ってみようと思った。

まずは、「毎朝、でかけるときは笑顔でいってらっしゃい・いってきますを言う。離れるときは、必ず笑顔で。」から始めよう。

『八日目の蝉』角田光代

八日目の蝉。どういう意味だろう??蝉は地上に出て七日で死ぬと聞いたことはあるけど、、、。そう思いながら、この本を手に取った。そしてこの本を読んで、私は改めて角田光代さんに嵌った。素晴らしい小説だと思った。

まず、希和子さんをはじめ、登場人物たちの心理描写がすごい。鬼気迫る憎しみや嫉妬、我が子のためならば幾らでも身を投げうつ母性。この登場人物たちと同じような想いや経験をせずにしてこの小説を書かれたのだとしたら(って、おそらくそうなのだろうけど)、本当に、小説家って怖い人達だなと思う。他人の生き方を生きるようにして書かなければ、ここまでの描写は不可能だ。赤ん坊をあやすときの希和子さんの気持ちとか、いままさに自分が味わっている気持ちが文字化されたようだったし。

つぎに物語のプロット。血のつながらない希和子さんと薫、五年間の逃亡生活の中にも溢れんばかりの愛があり、その愛が薫が子供をおろそうとした時に、それをひき止めたこととか。岡山のバラ寿司おいしいよーのタクシーのおじいちゃんとか。一章は希和子の日記のような形で進んでいくので、こちらは希和子に思わず感情移入してしまう。誘拐された親の気持ちを考えればいけないことだと頭では思いつつ、このまま、二人が幸せに暮らせればと願わずにはいられなかった。しか二章では誘拐された恵理菜が主人公。誘拐後に元の家族と暮らしていく中での苦しみや、心にぽっかりと穴が空いているような生き方を見ていると、なぜこんなことになってしまったのかという思いに駆られる。しかし、千草との出逢いや身に宿った赤ん坊によって徐々に自分を取り戻していく恵理菜を見ながら、安堵のため息をつく。海を見ながら希望に満ちている恵理菜を尊敬する。

と、色々と思うことのある物語でした。自分の子どもを自分で育てることができているのだから、愛情持って大切に一日一日を過ごして行こうとも思った。

以下、印象に残った台詞等。また読み直したいな。読み直す季節は、真夏がいい。蝉が鳴きまくる真夏に海で。



腕のなかで赤ん坊は、あいかわらず希和子に向かって笑いかけていた。茶化すみたいに、なぐさめるみたいに、認めるみたいに、許すみたいに。


八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと思うよ。


「私、自分が持っていないものを数えて過ごすのはもういやなの」


「心臓の音が聞こえるけど、あんたのか赤ん坊のか、わかんないな」
 私も赤ん坊も、おんなじように心臓を動かしているんだと、そんな当たり前のことに改めて気づく。私も千草のように自分のお腹に耳をつけ、聞きたかった。赤ん坊が生きている音を。私が生きている音を。


おなかの子どもが撫でるように腹の内側を蹴り、そうして私は、十七年前の港で野々宮希和子が叫んだ言葉をはっきりと思い出す。
その子は朝ごはんをまだ食べていないの。
そうだ、彼女は私を連れていく刑事たちに向かってたった一言、そう叫んだのだ。
その子は、朝ごはんを、まだ、食べていないの、と。
自分がつかまるというときに、もう終わりだというときに、あの女は、私の朝ごはんのことなんか心配していたのだ。なんて――なんて馬鹿な女なんだろう。私に突進してきて思い切り抱きしめて、お漏らしをした私に驚いて突き放した秋山恵津子も、野々宮希和子も、まったく等しく母親だったことを、私は知る。


「病院に調べにいったときも、その場で手術の日取りを決めるつもりだった。だけどね、千草、おじいちゃんの先生がね、子どもが生まれるときは緑がさぞきれいだろうって言ったの。そのとき、なんだろう、私の目の前が、ぱあっと明るくなって、景色が見えたんだ。海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものがぜんぶ入った、広くて大きい景色が見えた。今まで見たこともないような景色。それで私ね、思ったんだよ。私にはこれをおなかにいるだれかに見せる義務があるって。海や木や光や、きれいなものをたくさん。私が見たことのあるものも、ないものも、きれいなものはぜんぶ」遠くから聞こえる声は、まるで自分自身をなぐさめるみたいに響いた。「もし、そういうものぜんぶから私が目をそらすとしても、でもすでにここにいるだれかには、手に入れさせてあげなきゃいけないって。だってここにいる人は、私ではないんだから」

『それからはスープのことばかり考えて暮らした』吉田篤弘

読み終わってしまうのがもったいなくて、美味しい料理を舌でゆっくりと味わうように読ませて頂いた。『つむじ風食堂の夜』も素敵な物語だったけど、この『これからはスープ~』は、自分の好みにどんぴしゃりだった。暮らしの手帖に連載されていただけあって、あの雑誌の空気にとても良く合っていると思う。ていねいに今日を生きていこうと思える物語。映画、美味しい食事、この小説の軸になるものものは、どれも私の好きなものばかり。じゃがいものサラダのサンドイッチや名なしのスープの件などは、読んでいてお腹が鳴ってしまった。だって、本当に美味しそうなんだもんなぁ。とにかく、とても幸福な小説でした。お母さんの味のサンドイッチとスープ。古い映画とできたてのポップコーンを出してくれる小さな映画館。窓から見える教会の祈り。ネジ式の腕時計。壊れかけの小さい立方体のテレビ。何気ない優しい言葉のやりとり。大切にして、折に触れて読み返していきたい。中古の文庫で読んだのだけど、単行本も購入しようかな。装丁も可愛かったし。うーん、いい本と出会えて幸せ!!(以下、心に残ったフレーズたち)

 じゃがいものサラダ。
 が、口の中には、じゃがいものサラダより数段まろやかな甘みがある。
 目はいちおうスクリーンを見ていたが、意識の方はすべて舌にもっていかれ、そのまろやかさが何に似ているか、懸命に記憶を探って言い当てようとしてみた。
 でも、うまく言えない。とにかく、非常に美味しいもの。しいて言えば――本当にしいて言えば――本物の栗を練ってつくられたモンブラン・ケーキのクリーム。
 いや、あれほど甘くなく、もっと歯応えがある。(p19)

<トロワ>で働くようになって、(中略)仕事というのは誰かのためにすることなのだと当たり前のことに思い至った。
 その「誰か」をできるだけ笑顔の方に近づけること――それが仕事の正体ではないか。どんな職種であれ、それが仕事と呼ばれるものであれば、それはいつでも人の笑顔を目指している。(p142)

「あのね、恋人なんてものは、いざというとき、ぜんぜん役に立たないことがあるの。これは本当に。でも、おいしいスープのつくり方を知っていると、どんなときでも同じようにおいしかった。これがわたしの見つけた本当の本当のこと。だから、何よりレシピに忠実につくることが大切なんです」(p203)


そして、帯と裏表紙の言葉もいい。この物語の良さがよくまとまっている。やはりプロはすごいなぁ。

【帯】
もしかして
これは恋愛小説かもしれない。

銀幕の女優とおいしいサンドイッチに恋をした青年の物語

『つむじ風食堂の夜』の著者が贈る
「月舟町シリーズ」第二幕

【裏表紙】
路面電車が走る町に越して来た青年が出会う人々。商店街のはずれのサンドイッチ店「トロワ」の店主と息子。アパートの屋根裏に住むマダム。隣町の映画館「月舟シネマ」のポップコーン売り。銀幕の女優に恋をした青年は時をこえてひとりの女性とめぐり会う――。いくつもの人生がとけあった「名前のないスープ」をめぐる、ささやかであたたかい物語。

『おたんじょうび おめでとう!』

表紙の美しさと愛らしさに魅せられて、ひとめ惚れで購入。しかも作者はマーガレット・ワイズ・ブラウンさん!

うさぎ、ぶた、りす、みつばち、あおむしが生まれて、一歳のお誕生日会に素敵なプレゼントをもらうというお話。リズムもよく、「りすは何のプレゼントをもらったのかな~??」とか言いながら子供と読むのも楽しそう。もうすぐ子供の一歳の誕生日なので、お部屋に飾っておく予定。

『ジブリの本棚』(DVD)メモ

ジブリの森美術館のトライホークス。
宮崎さんが選んだ児童文学が並んでいる。
行きたいっ!!!

杏ちゃんは、
漢字テストで二回連続で満点を取ると本を一冊買ってもらえて、
それが楽しみで楽しみでしょうがなかったそうです。

児童文学が引き出し。
「児童文学の創造に参加する時、僕らの現在の態度は重大な意味を持ってくることになるだろう。」
僕は大人の小説には向いていない人間だと思い、
児童書の方が気色にあうと思った。児童文学はやり直しがきくと思った。
何の気なしに読んで、なんかのきっかけになればいいと思う。
本を読めば立派な人になるってわけではない。ひとつのきっかけに。
やっぱり生き残ってきた児童文学は面白い。


翻訳家、石井桃子さんと宮崎駿。
戦後の日本に子供のための本をもたらせた石井さん。
宮崎さんにとっては神棚に置いておきたいくらいの人。
70年以上、子供の文化に貢献した。
石井さんが児童文学に目覚めたきっかけは、
『くまのプーさん』。
子供のものこそ妥協を許さず最高のものを紹介する。

挿絵の魅力。
海底二万里の表紙絵なんて、
宝物を持っている気がした。
挿絵を手掛かりに、外国のものを読む。
挿絵は入り口として大きな役割を果たす。

『床下の小人たち』のメアリー・ノートン。
彼女がこの世界を生み出したきっかけは、
イギリス、コッツウォールズ地方にあると言われている。
ボートン・オン・ザ・ウォーターのThe model village。
村を1/9サイズに縮小して作った。
知らず知らずのうちにファンタジー世界の住人になってしまう。
これはとても行きたい!!!!
ドールハウスの実物も観てみたいなぁ。
ムルベイニーとドジャーズの工房とか(夫婦アーティスト!)。
「もし小人がわたしたちが作った宮殿に入ってきたら、
 人間が作ったささいなズレは、彼らにとって大きなズレとなる。
 彼らが暮らせるようなものを作りたい。」

物質的に豊かになったけど心が貧しくなってしまった人間たちとは対照的に、
貧しくとも豊かな生活をしている借り暮らしの小人たちを描いている。
わたしたちはどちらの生活により魅せられるのか。
もし彼らが本当に存在するとしたら、どちらが絶えるのか。

小人たちのシリーズは全5冊。
一冊目はカーネギー賞を受賞。

アリエッティに託すもの。
床下の小人たちは、素敵だった。
アリエッティの世界がひっくり返る。
残酷な少年の言葉によって。
子どもたちは残酷なもの。
あと、普段、やたらモノがなくなるんだけど、
それは小人たちが持ってくんだなという考えが面白い。
夜のうちに小人が来て、朝来ると仕事ができてるー!とかあるといいなと思ってた。
20代からずっと温めていたもの。
大人たちが世界に対して無力が気がしてしまってきている今、うんざりしたから、
この物語を作品にしようと思った。


子どもの心のなか。
トトロの主題歌『さんぽ』の歌詞は、
『ぐりとぐら』の中川さんが作った。
『いやいやえん』の『くじらとり』を読んだとき、
アニメーションにしたいと思った。
子どもの心のなかはこうだ、と。
現実と空想の境目がない。
中川さんにとって、子供は好きというより、面白いひとたち。
みればみるほど面白いし、ちゃんと見てなきゃ面白くない。
ほんとに可愛い。成長あるのみ。昨日と今日はちがう。
振り返らない。昨日の話をするなんて馬鹿。
小さいころの話なんて、子供はやっている暇ない。
明日はなにをしようで頭いっぱい。
目標はいつも高くもって、いつも一番えらいと思う。
自信をもっているから可愛い。


アニメはそんなしょっちゅう見るべきものじゃない。
人間は、働くために食べる。
好きだから、しょうがないから作る。
映画を続けるのは煩悩。


【宮崎さん おすすめの岩波文庫】

西遊記(自由奔放、縦横無尽。愉快で爽快)
星の王子さま(大切な物語)
ハンス・ブリンカー
100枚のドレス
くまのプーさん
たのしい川べ
ふしぎの国のアリス
海底二万里
アンドルー・ラング世界童話集(挿絵が輝いている)
まぼろしの白馬
秘密の花園
床下の小人たち
ロビンソン・クルーソー(大人になってから気付く棘)
いやいやえん(子どもたちの世界は本当はこんな風にできているんだ)
牛追いの羊(子どもが4人いるのに、ママは一度もヒステリー起こさないんだって!)
小さい牛追い
ハイジ
注文の多い料理店(この人の作品は、すべて宝物です。ゆっくり何度も読んで、声を出して読むのです)