人を元気にしてくれるのは、旅行とか、パワースポットとか、そういうぶっ飛んだものじゃなくて、日々の当たり前のことなのかも。当たり前に感じている幸福なことが、たくさんあるんだよな。それを、味わってみること。気づくこと。鈍くなりたくないな、と思う。
と、この本を読み終わって、この文章を書きながら、そんなことを考えた。『昨夜のカレー、明日のパン』、すごくいいタイトル。こういう言葉、それにまつわる日常や思い出が、深呼吸をさせてくれるのかもな。この小説、肩肘張ってなくて、寄り添ってくれて、そっと背中を押してくれて、優しい。好きだなあ。深呼吸の必要を感じているとき、ぴったりだな。
パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず微笑んだ。たった二斤のパンは、生きた猫を抱いた時のように温かく、二人はかわりばんこにパンを抱いて帰った。
悲しいのに、幸せな気持ちにもなれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする。p21
「いい名前だな、タカラ」
「いい名前ですか?」
「いい名前だよ」
そう言った後、黙って窓の外を見た。空を見ているようだった。そして、
「オレ、くたくたになるまで生きるわ」
と言った。
窓からの陽がお父さんの横顔を美しく照らしていて、フェルメールの絵画のようだった。静かで、でも揺るぎなくそこにいた。p60
「知りませんか?八木重吉」
テツコが知らないと言うと、詩人です、と言って、女の子は突然、暗唱し始めた。
わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であつても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分かりさへすれば、
ああ ひさしくも これを追ふにつかれたころ
夜の空に女の子の声が途切れて、しばらく二人は黙っていた。
「八木さんに言ってあげたかったなぁ。あるかもよって」
そう言って女の子は、歩き出した。
まだ、細い子供の足だった。p156
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