2013/11/30

『八日目の蝉』角田光代

八日目の蝉。どういう意味だろう??蝉は地上に出て七日で死ぬと聞いたことはあるけど、、、。そう思いながら、この本を手に取った。そしてこの本を読んで、私は改めて角田光代さんに嵌った。素晴らしい小説だと思った。

まず、希和子さんをはじめ、登場人物たちの心理描写がすごい。鬼気迫る憎しみや嫉妬、我が子のためならば幾らでも身を投げうつ母性。この登場人物たちと同じような想いや経験をせずにしてこの小説を書かれたのだとしたら(って、おそらくそうなのだろうけど)、本当に、小説家って怖い人達だなと思う。他人の生き方を生きるようにして書かなければ、ここまでの描写は不可能だ。赤ん坊をあやすときの希和子さんの気持ちとか、いままさに自分が味わっている気持ちが文字化されたようだったし。

つぎに物語のプロット。血のつながらない希和子さんと薫、五年間の逃亡生活の中にも溢れんばかりの愛があり、その愛が薫が子供をおろそうとした時に、それをひき止めたこととか。岡山のバラ寿司おいしいよーのタクシーのおじいちゃんとか。一章は希和子の日記のような形で進んでいくので、こちらは希和子に思わず感情移入してしまう。誘拐された親の気持ちを考えればいけないことだと頭では思いつつ、このまま、二人が幸せに暮らせればと願わずにはいられなかった。しか二章では誘拐された恵理菜が主人公。誘拐後に元の家族と暮らしていく中での苦しみや、心にぽっかりと穴が空いているような生き方を見ていると、なぜこんなことになってしまったのかという思いに駆られる。しかし、千草との出逢いや身に宿った赤ん坊によって徐々に自分を取り戻していく恵理菜を見ながら、安堵のため息をつく。海を見ながら希望に満ちている恵理菜を尊敬する。

と、色々と思うことのある物語でした。自分の子どもを自分で育てることができているのだから、愛情持って大切に一日一日を過ごして行こうとも思った。

以下、印象に残った台詞等。また読み直したいな。読み直す季節は、真夏がいい。蝉が鳴きまくる真夏に海で。



腕のなかで赤ん坊は、あいかわらず希和子に向かって笑いかけていた。茶化すみたいに、なぐさめるみたいに、認めるみたいに、許すみたいに。


八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと思うよ。


「私、自分が持っていないものを数えて過ごすのはもういやなの」


「心臓の音が聞こえるけど、あんたのか赤ん坊のか、わかんないな」
 私も赤ん坊も、おんなじように心臓を動かしているんだと、そんな当たり前のことに改めて気づく。私も千草のように自分のお腹に耳をつけ、聞きたかった。赤ん坊が生きている音を。私が生きている音を。


おなかの子どもが撫でるように腹の内側を蹴り、そうして私は、十七年前の港で野々宮希和子が叫んだ言葉をはっきりと思い出す。
その子は朝ごはんをまだ食べていないの。
そうだ、彼女は私を連れていく刑事たちに向かってたった一言、そう叫んだのだ。
その子は、朝ごはんを、まだ、食べていないの、と。
自分がつかまるというときに、もう終わりだというときに、あの女は、私の朝ごはんのことなんか心配していたのだ。なんて――なんて馬鹿な女なんだろう。私に突進してきて思い切り抱きしめて、お漏らしをした私に驚いて突き放した秋山恵津子も、野々宮希和子も、まったく等しく母親だったことを、私は知る。


「病院に調べにいったときも、その場で手術の日取りを決めるつもりだった。だけどね、千草、おじいちゃんの先生がね、子どもが生まれるときは緑がさぞきれいだろうって言ったの。そのとき、なんだろう、私の目の前が、ぱあっと明るくなって、景色が見えたんだ。海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものがぜんぶ入った、広くて大きい景色が見えた。今まで見たこともないような景色。それで私ね、思ったんだよ。私にはこれをおなかにいるだれかに見せる義務があるって。海や木や光や、きれいなものをたくさん。私が見たことのあるものも、ないものも、きれいなものはぜんぶ」遠くから聞こえる声は、まるで自分自身をなぐさめるみたいに響いた。「もし、そういうものぜんぶから私が目をそらすとしても、でもすでにここにいるだれかには、手に入れさせてあげなきゃいけないって。だってここにいる人は、私ではないんだから」

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